「ワイドナショー」に対するインテリ業界の嫌悪感
ネット言論の定番的情景で興味深いもののひとつに「『ワイドナショー』に対するインテリ業界の嫌悪感」がある。 これについて「芸人に政治や文化を語らせることの限界」とか「権力筋の意向に沿いやすい(とインテリ側から見える)松本人志の姿勢」とか、いろんな超ありがち議論の筋書きを語ることも可能だが、この場でおそらくそんな話はお呼びでない。私が重要だと思うのは、そうしたアンチ松本人志的な(特に年嵩の)インテリな方々のけっこう多くが、一方でたとえば『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)を言論的知性の原体験っぽいものとして懐かしんでおり、そして、90年代的たけしの言説と今の松本人志の言説には「直観的知性」として類似点が極めて多いことだ。 なぜ昔のたけしはOKで今の松本人志はNGなのか。 「昔はモラル的に大雑把だったから」という解釈はいたずらな思考停止を呼ぶので、それ抜きで考えたい。 まず大きなポイントとして、 ・松本人志は深夜枠向けの言霊をゴールデンタイムや日中に放ってしまう ・昔に比べて今はそれが悪目立ちする というのがあるだろう。 では、なぜ悪目立ちするのか? アラフィフなオヤジ知人とこれについて議論する中で出てきたのが「あの手の、妙に知的要素をはらんだ笑いってだいたい既存権威・権力を茶化すんだけど、それが、ビートたけしの全盛期あたりではわりと体制的権力をターゲットにしていたのが、松本人志の時代ではインテリ的権威にシフトした感がある。そのへんがいろんな違いを生んでいるのではないか?」という説だ。論理的実証は難しいだろうけど感覚的記憶を是とするならば、なるほどそれは、インテリ業界の「中の人」が松本人志を好かないことの直接的な説明になっている感がある。 ついでにいえば、体制的権力が怨嗟よりも笑いのネタにされる時代は得てして余裕があるのだそうで、だとするとこれは、けっこう笑うに笑えない事実を暗示しているかもしれない。 ■いつの間にか「高級品」になったビートたけし 時に『ビートたけしのオールナイトニッポン』(またはそれに類する疑似知的コンテンツ)の何が超魅力的だったのか、について、実際にリスナーだったアラフィフ層の知人たち(そう、私の知人はオヤジが多いのだ)に訊いてみた話を総合すると、「ギャグのはずなのに、凡人がありがたがっている世間的通念よりも遥かに新鮮かつ強力な「道理」がそこにあるように感じられたから」という感じになる。 興味深い。 1983年にドイツで生まれた私は、北野武という人物をまず「日本が生んだ天才的な映画監督」として認識し、実際にその作品を観て感じた印象は、先述のアラフィフ知人たちが『オールナイトニッポン』を聴いて感じたものに極めて近い。ただ「お笑い」でないだけだ。 そう、ビートたけしはいつの間にか「高級品」になっていった……そうだ。『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)とか『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』(日本テレビ)とかをゲハゲハ笑いながら楽しんでいた層にとっては、意識の底流で何やら複雑な渦が湧く展開だったかもしれない。 そしてそれは、松本人志が妙に叩かれることとも何か関係しているかもしれない。というか、そう感じさせる何かがある。ちなみに松本人志もアート実験的な映画を作って、そして妙に叩かれた。個人的に彼の映画には、賛否紛糾覚悟の上でのイケてる発想や感性が濃厚に感じられて、一般的世評よりは遥かに上質な作品だと思っていたりする。 ここで私は思い至る。 松本人志を叩く層の中心が、若者ではない、1980~90年代的な原体験の記憶を引きずりながら葛藤したりドヤ顔するグループ、年少期に『機動戦士ガンダム』を観てファンになり、今『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を観て「うん、コレよコレ」とか言ってるような、ガンダムと共に育った的な世代の人っぽいという点こそ重要な気がする。おそらく松本人志叩きというのは、アラフィフ的な自己主張の延長を主旋律とする、さまざまな呪力が織り込まれた「戦い」なのだろう。一概に悪とは言えないが善とも言い難い、ような。
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