客船フランコニア号のアッパーデッキで行われたファッションショー。1925年。Photo: Brooke / Getty Images
ランウェイショーは、平均してわずか15分ほどの儚いファンタジーだ。しかし、その隅々にデザイナーたちのビジョンが投影され、ファッションの歴史に決して消えることのない証を刻む。
現在のようなショーの歴史は、1910年代のパリのきらびやかな舞踏室からはじまった。それ以前もマネキンに服を着せ顧客に披露することはあったが、その後進化を遂げ続け、生身のモデルを使ったファッションパレードの形をとるようになった。ショーは、19世紀の偉大なるデザイナーであるシャルル・フレデリック・ウォルトや、ファッションを近代化させたポール・ポワレ、さらに現代化を推し進めたイヴ・サン=ローランといったパイオニアたちの自由な創造性の賜物であり、飛躍の場だった。ショーなくして、現在のミウッチャ・プラダや川久保玲、ジョン・ガリアーノといったデザイナーは生まれていなかっただろう。
現代のランウェイへの道を築き、グローバルなファッション界を築き上げた先駆者たちの功績を改めて振り返っていこう。
マネキンからの脱却──シャルル・フレデリック・ウォルト(CHARLES FREDERICK WORTH|1825-95年)
シャルル・フレデリック・ウォルト。1870年頃。Photo: Hulton Archive / Getty Images
19世紀に活躍したイギリス系フランス人のオートクチュール・デザイナー、シャルル・フレデリック・ウォルトは、オートクチュールに着心地の良さを与えたことで知られる改革者だ。大きなクリノリン(スカートのドームシルエットを支える骨組み)に代わり、ナポレオン三世の妻、ウジェニー皇后も好んで着ていたプリンセスシルエットやストレートシルエットを生み出し、女性に自由な動作をもたらした。
シャルル・フレデリック・ウォルトがデザインしたドレスを着てポーズを取るモデルのファベール嬢。1900年~1910年頃。Photo: Keystone-France / Gamma-Keystone / Getty Images
オートクチュールのデザイナーは、伝統的に顧客の自宅へ出向き試着を行っていたが、ウォルトは自分のアトリエに客を迎えた。彼のブランドの成功に貢献したサロンと社交シーンの誕生だ。17のパーツを使い完璧なフィットを実現する「ウォルト・ボディス」は、彼の高い技術を証明する代名詞となった。
また、オートクチュールの父として知られている彼は、マネキンを使いコレクションを披露することをやめた最初のデザイナーでもあった。代わりに彼は、自身の妻、マリー・オーギュスティーヌ・ヴェルネを含む人間のモデルを起用した。
ファッションの身体性を追求──ポール・ポワレ(PAUL POIRET|1879-1944年)
モデルにフィッティングを行うポール・ポワレ。1930年頃。Photo: George Rinhart / Corbis / Getty Images
オートクチュールを確立した一人であるポール・ポワレは、コルセットを使わない革命的なシルエットと実験的なファッションショーによって、ファッションの歴史を変えた。アレッサンドロ・ミケーレやマーク・ジェイコブスといった現代のデザイナーは、ショーにメリーゴーランドや動く歩道、実験的な振付などを取り入れることで動きを表現するが、ポワレもまた、動きをもって自身のデザインを発表することにこだわった。
ロンドンのストリートでフランスのファッションを披露するポール・ポワレとモデルたち。1925年頃。Photo: Keystone-France / Gamma-Keystone / Getty Images
ポワレは夫人に金の籠を纏わせ、パリの社交界を招いて豪奢な「LA MILLE ET DEUXIÈME NUIT(千二夜物語)」などの舞踏会を開催した。その眩いばかりの社交界ネットワークと傑出したアイデアは、別の形でもファッション史に刻まれている。雑誌『ART & DÉCORATION』の1911年4月号のために写真家のエドワード・スタイケンがポワレの作品を撮影したストーリーが、史上初のファッション特集となったのだ。
1911年にジョルジュ・ルパップによって描かれた、『千二夜物語』でのポワレの妻デニースのイラスト画。Photo: Photo 12 / Universal Images Group / Getty Images
女性のファッションを多様化──ココ・シャネル(COCO CHANEL|1883-1971年)
1937年のココ・シャネル。Photo: Horst P. Horst / Conde Nast / Getty Images
ガブリエル・ボヌール・シャネル(通称ココ・シャネル)は、1920年代に窮屈なコルセットから女性を解放した革命的デザイナーとしてファッション史に不動の地位を確立している。当時、男性の下着に使われていた薄手のジャージー素材を用いてスポーツに着想を得たシルエットの服をデザインし、機能性に優れたエフォートレスなワードローブを女性たちにもたらした。
自身のデザインした、ブラウンシフォンのフラウンス付きイブニングドレスをチェックするココ・シャネル。1957年。Photo: Brettman Archive / Getty Images
ボーダーのブレトンシャツやセーリングパンツに代表される彼女のデザインは、女性の服にそれまで欠けていた多様性を与えた。リュ・カンボン31番地に構えた自身のサロンで開催されたショーはいつも、新鮮な驚きに満ちあふれていたが、シャネル本人はといえば自分のアパルトマンへ続く鏡張りのらせん階段から、鏡に映った観客の反応をこっそりうかがっていたという。
ファッションとアートの融合──エルザ・スキャパレリ(ELSA SCHIAPARELLI|1890-1973年)
パリのアトリエにて、モデルの試着を見守るエルザ・スキャパレッリ。Photo: Bettmann / Getty Images
ローマ生まれのエルザ・スキャパレリは、芸術運動シュルレアリスムを愛し、表現としてのファッションの境界を押し広げたファッションデザイナーだ。フランシス・ピカビア、マルセル・デュシャン、マン・レイといった芸術家との友情を生涯大切にした。
戦間期、パリのファッションシーンの中心的存在だったスキャパレリは、シュルレアリスムの知性とファッションを融合させ、あまたの個性的でウィットに富んだ作品を生み出した。コラボレーションにおいても彼女は時代の先を行く存在だった。1937年から1940年の間、彼女はサルバドール・ダリとタッグを組み、電話のダイヤル型コンパクトやシューハットなどをデザインして顧客たちを楽しませた。彼女のファンにはフランスの詩人ジャン・コクトーなど、大きの教養人も含まれた。
1952年、パリのサロンで開催されたスキャパレリのコレクション。Photo: Hulton-Deutsch Collection / CORBIS / Corbis / Getty Images
エルザ・スキャパレリによるシルクオーガンザのストラップレスドレスとグローブ。1951年の『VOGUE』より。Photo: John Rawlings / Conde Nast / Getty Images
スキャパレリの活躍の舞台はハリウッドにまで広がり、ファッション・アンバサダーの先駆けとして、マレーネ・ディートリヒやメイ・ウエストといったセレブリティたちのスタイリングを担当するまでになった。メイ・ウエストは1937年のミュージカルコメディ『EVERY DAY’S A HOLIDAY』で、スキャパレリによる服を身にまとっている。
一方で、自由な発想で数々の革新をもたらした彼女を批判する声もあった。アートシーンと密接に関わっていた彼女の文化的影響力の大きさを羨んでか、ライバルであるココ・シャネルは「服をつくるイタリア人芸術家」と皮肉っていたそうだ。
バイアスカットの名手──マドレーヌ・ヴィオネ(MADELEINE VIONNET|1876-1975年)
1930年の『VOGUE』に掲載された、ヴィオネの優雅な白いドレスを着たモデルのポートレート。Photo: Edward Steichen / Condé Nast / Getty Images
バイアスカット(布地の目に対し斜めにカットすることでボディにドレープさせる手法)の名人として知られるフランス人オートクチュール・デザイナー、マドレーヌ・ヴィオネ。1920年代、ダンサーのイザドラ・ダンカンの裸足で踊る儀式舞踊などの動きや古代ギリシアの彫刻に影響された新鮮な作品をデザインした。
ヴィオネの大胆なドレスを着るジョーン・クローフォード。1938年の『VOGUE』より。
コルセットやパディングではなく、しなやかでボディに沿ったデザインでデビューしたヴィオネの顧客名簿には、キャサリン・ヘプバーン、ジョーン・クローフォード、グレタ・ガルボなど、著名人が多く名を連ねた。ハリウッドスターたちの支援を得たヴィオネは、ニューヨークのデパート、チャールズ&レイ・レディーステーラーでデビューコレクションを披露。そのスタイルは、パリのモンテーニュ通り50番地にある彼女のサロンで開かれたショーの原型となった。
閉ざされたコミュニティからの解放──クリスチャン・ディオール(CHRISTIAN DIOR|1905-1957年)
パリのスタジオでコートの仕立てを確認するクリスチャン・ディオール。1952年頃。Photo: Roger Wood / Getty Images
戦後のファッション界においてもっともアイコニックなデザイナーといえば、クリスチャン・ディオールだ。現在の傾向から考えると遅咲きと言える彼が、自身の名を掲げたブランドをパリにローンチしたのは42歳のとき。しかし、第二次世界大戦終戦から2年後となる1947年に、シグネチャースタイルである「ニュールック」を発表すると、たちまち時代の寵児となった。ボリューム感のあるフルスカートやしっかりとしたテーラリングの「バー」ジャケットなど、数々の革新的デザインを生み出し、戦中戦後の暗いワードローブに終止符を打ったのだ。
1948年、パリのファッションショーで披露されたディオールのイブニングドレス。Photo: Keystone-France / Gamma-Rapho / Getty Images
アトリエにてモデルにシフォンドレスを着せるクリスチャン・ディオール。1950年頃。Photo: KAMMERMAN / Gamma-Rapho / Getty Images
彼のデビューコレクション「コロール」は、スカートに使われた花のようなシルエットにちなんで付けられた名称で、ラグジュアリーの復活を強調するものとなった。
ディオールの才能は、そのショーマンシップにもある。彼は1947年の初披露の日、それまでプライベートサロンでのショーに立ち会うことが許されていなかった写真家たちを招待した。
ほかにも、パリの狭い社交界を飛び出して顧客を見つける才能にも長けていた。コレクションとともにケープタウンやカラカスを含む世界各地を巡り、顧客一人ひとりのためにパーソナライズしたプログラムを用意した。1940年代にはニューヨークに店舗をオープンし、顧客層を大胆に拡大することに成功している。
戦後ファッションの飛躍の立役者──ピエール・バルマン(PIERRE BALMAIN|1914-1982年)
1965年、ロンドンのキャットウォークにてコレクションを初披露するピエール・バルマン。Photo: Terry Disney / Express / Getty Images
ピエール・バルマンもディオールと同じく、1945年に戦後のパリでブランドを立ち上げた。パリの社交界でプライベートサロン・ショーを開いた彼は、テーラードスーツ、豊富なアニマルプリント、豪華なイブニングウェアなどのコレクションでたちまち人気を獲得。それから5年も経たぬうちに国外進出を果たし、1952年にはニューヨークでもショーを開催するに至った。
1955年、ファッションショーに向け準備するピエール・バルマン。スキー事故のため脚にギプスを巻いて作業を進めている。Photo: Bettmann / Getty Images
アメリカ人作家ガートルード・スタインとアリス・B・トクラスと親しく、その友情については1954年12月1日の『VOGUE』に記載されたスタインの記事に詳しい。「パリ・クチュールの新しい快挙」と題された記事で、彼女はバルマンとの友情について語り、物資に乏しい戦中、彼が靴下のほころびを繕うのが得意であったことを記した。彼はまた、ハリウッド女優のキャサリン・ヘプバーンやタイのシリキット王妃のお抱えデザイナーでもあった。
新素材への実験精神──ジャック・ファット(JACQUES FATH|1912-1954年)
1946年に開催されたジャック・ファットのショーの様子。Photo: Nina Leen / The LIFE Picture Collection / Getty Images
独学でデザインを学び、貪欲に自分を売り込むことで知られたジャック・ファット。最初のコレクションはパリのボエティエ通りにある2部屋の小さなサロンで披露されたが、1944年にはより華やかな場所に移っている。ファットは勇敢な実験者でもあり、アシンメトリーやボリューム感、天然素材(麻袋やアーモンドやくるみの殻でできたシークインすら)などを大胆に取り入れた。
最新コレクションを身に纏ったモデルとジャック・ファット。1949年。Photo: Herbert Gehr / The LIFE Picture Collection / Getty Images
彼はまた、アヴァ・ガードナー、グレタ・ガルボ、リタ・ヘイワースといったハリウッドの大女優たち、そしてアルゼンチンのファーストレディ、エヴァ・ペロンのお抱えデザイナーでもあった。ペロンが他界する数カ月に描かれた肖像画で彼女は、ファットの服をまとっている。彼が1954年に白血病で亡くなると、妻でありミューズでもあったジュヌヴィエーヴ・ブシェールが後任デザイナーとなったが、1955年のコレクションから2年後にブランドは閉鎖された。
シルエットの革命家──ユベール・ド・ジバンシィ(HUBERT DE GIVENCHY|1927-2018年)
ユベール・ド・ジバンシィは、ジャック・ファットとエルザ・スキャパレリに師事した後、1952年に彼の名を冠したメゾン、ジバンシィ(GIVENCHY)を設立した。しかし、恩師らのように女性のウエストを強調することは望まず、代わりに抽象的なバルーンシルエットを発明した。
ジバンシィのデザインを纏う彼のミューズ、オードリー・ヘプバーン。1963年の『VOGUE』より。Photo: Bert Stern / Conde Nast / Getty Images
彼もまた、ブランドをパリのサロンの外へ羽ばたかせるために著名人を起用し、1954年にはプレタポルテコレクションの「GIVENCHY UNIVERSITÉ」を、1969年にはメンズラインをローンチしている。パリの外では、ローレン・バコール、マリア・カラス、グレース・ケリー、ダイアナ・ヴリーランドなどが彼のデザインに多大なる信頼を寄せたが、ブランドを真に神格化したのはオードリー・ヘプバーンだ。二人は生涯にわたる友情を育み、映画『ティファニーで朝食を』(1961年)でヘプバーンが着た伝説のブラックドレスは、ジバンシィの代名詞的作品となった。
ジェンダーステレオタイプからの解放──イヴ・サン=ローラン(YVES SAINT-LAURENT|1936-2008年)
フィッティング調整を行うイヴ・サン=ローラン。1965年。Photo: Reg Lancaster / Express / Getty Images
現代女性のワードローブの父として多くの人から称えられるイヴ・サン=ローランは、1957年に21歳でディオールのクリエイティブ・ディレクターに就任し、その後数年にわたって創業者の意志を引き継いだ。その後、1961年にパートナーのピエール・ベルジェと共に自身の名を冠したブランドを立ち上げた。
1981年春に開かれた、イブ・サンローランのオートクチュール。Photo: Daniel Simon / Gamma-Rapho / Getty Images
サン=ローランの進取の精神は、メンズウェアの影響が色濃く見られるトレンチコートやタキシード、パンツスーツなどの両性的なスタイルを生み出した。スポンティーニ通り30番地にある彼のサロンはパリのファッションシーンの中心地となり、サン=ローランは1962年1月29日、パリ伯爵夫人、アン王女、バロネス・ド・ロスチャイルド、ジジ・ジャンメール、フランソワーズ・サガンを含む世界の有力者たちに向けてファーストコレクションを発表した。
番外編:米仏の代表デザイナーによる夢の競演。
ヴェルサイユ宮殿修復のため、バロネス・ド・ロスチャイルドが主催したガラでのパフォーマンス。1973年。Photo: Daniel SIMON / Gamma-Rapho / Getty Images
1943年にニューヨークコレクションを設立した広報のスペシャリスト、エレノア・ランバートと、ヴェルサイユ宮殿のキュレーター、ゲラルド・ヴァン・ダー・ケンプが企画した1973年の「ヴェルサイユの戦い」は、史上初の正式なパリコレクションとしてファッション史に記憶されている。
ヴェルサイユの戦いは、イヴ・サン=ローラン(YVES SAINT-LAURENT)、エマニュエル・ウンガロ(EMANUEL UNGARO)、クリスチャン・ディオールのクリエイティブディレクターであったマルク・ボアン(MARC BOHAN)、ピエール・カルダン(PIERRE CARDIN)、そしてユベール・ド・ジバンシィ(HUBERT DE GIVENCHY)という5人のフランス人デザイナーと、アメリカを代表するビル・ブラス(BILL BLASS)、オスカー・デ・ラ・レンタ(OSCAR DE LA RENTA)、アン・クライン(ANNE KLEIN)、ホルストン(HALSTON)、スティーブン・バロウズ(STEPHEN BURROWS)の5人のバトルという設定で開催された。
「ヴェルサイユの戦い」でアイコニックなルックを披露するモデル。Photo: Alain Dejean / Sygma / Getty Images
イヴ・サン=ローランのショーにはブガッティのリムジンが、ディオールのショーには実物大のカボチャの馬車が登場するなど、負けず嫌いのデザイナーたちは類まれな発想力でしのぎを削った。最終的には、ライザ・ミネリとジョセフィン・ベーカーによるライブパフォーマンスが功を奏し、アメリカチームに軍配が上がった。
Text: Emily Zak
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June 14, 2020 at 10:05AM
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